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No.1 東日本大震災1週間後の東北

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東北関東大震災発生から1週間後の2010年3月18日から20日まで、 物資援助のため宮城県気仙沼市、本吉町、南三陸町に現地入り。震災直後 の現地はすさまじい光景でした。

市内の中心街でもいまだ復旧の動きはみえておらず、車が建物に突っ込み、横転し、家々が崩れていました。学校の体育館、倉庫、 大きなスタジアム、各老人ホームなどの施設などを利用し全国各地からあつまった物資をまとめ、各地に運んでいました。この日から自衛隊の救援が積極的 にはじまり、多くの自衛隊員が物資の配送の作業もかってでていました。 ガソリン不足は深刻で、ガソリンスタンドは「閉店」「売り切れ」の文字が目立った。 営業をしているところでは長くて1キロ以上をこす車の行列ができていました。今回訪問した中でも最も被害が大きかった場所が南三陸町です。街の人たちは 「町がひとつなくなったよ。」とうつむきながら話してくれました。海沿いの家が並んでいた場所にはもう1軒も家はなく、建物の跡かたもない状況。「山が あそこにあって上に車停めてたんだけどあんだけ流されたよ」と500m先の車を中年男性が指をさして説明してくれました。町は山もなくなり、家もなくなり、家族もなくなり、すべてを失った様子。自分の家に少しでも何か自分のものが残っていないか、崩れた家の中を捜している人々の光景を目にしました。 町の避難所は現状、避難所、遺体安置所、安否確認所としても利用され、多くの人が詰めかけていました。震災直後ということもあり1000人をこえる人が避難していました。 遺体の安置所もあるため、葬儀所の車が多くとおっていました。 遺体確認書という張り出しがあり、 女性 ○○歳ぐらい ○○○cm ○○kg 白髪混じり 黒のカーディガンに黒のズボンを着用 など、多くの方々の張り出しを多くの方々が確認している姿が見受けられました。 復旧のめどはほとんど立っておらず、仮設住宅の実質的な動きも海岸沿いの地域では「毎日生きることで精一杯で今はそんなことは言っていられない」という状態でした。家族の安否の確認もできないまま、多くの方々が来る日も来る日も家族が戻ってくるのを待っているという姿が今でも脳裏に焼き付いています。 高校、大学時代のアメリカンフットボール部の監督である国分さんのご好意で、国分運輸様が宮城まで物資を運ぶトラックの手配をしてくださいました。

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